京都 西大谷 鳥辺山 大谷花屋 山口について

 大谷花屋は、お客様が急な用事でお墓参りできない場合、ご先祖様の墓碑への供え花を、誠意を込めて代行する供花代行サービスや清掃代行サービスも提供しております。当店は西大谷本廟の大谷墓地をさらに登り、世界遺産清水寺に近く、鳥辺山山頂付近で、現店主の曽祖父 山口繁三郎(嘉永3年11月10日生)の代から、4代に渡り営んでいる花店です。

大谷墓地について

大谷墓地は、1661(寛文元)年、九条の西光寺の願いにより、西大谷祖廟の外に墳塔を営むことが許可され、現在の大谷墓地が始まった、らしいです。


鳥辺山について

「鳥辺山」については、諸説ありますが纏めてみました。

平安時代(794年-1185年)、いたるところ風葬が多かったため、小野篁は蓮台野(洛北)、鳥辺野、華頂(洛東)、西院、化野(洛西)の5箇所に葬場を制定した。その頃の鳥辺野は、今の祇園・円山公園の一帯であった。以降漸次南に下り、鳥辺山(野)は五条通より南側の阿弥陀ヶ峰から泉涌寺・東福寺のあたりまでを指すようになった。

 

参考までに、今熊野観音寺の由緒沿革には、「東山七条の東の峰に位置する阿弥陀が峰の南西一帯を鳥戸野、北西の一帯を鳥辺野を区別し、同寺は鳥戸野の葬地を掌っていた」、と記載されている。

 

現在「鳥辺」の名を残す鳥辺山は範囲が狭まり五条坂から東の小高い丘を指す。西大谷本廟・多寳山實報寺・通妙寺・本寿寺・妙見堂・当店などを含む小高い山を鳥辺山とするのが一般的らしい。市街近さを反映して町名も市街らしく「五条橋東六丁目」という町にある。


大谷花屋について

曾祖母からの口伝えですが、以下の経緯で花屋を営むことになったらしいです。山口家は明治維新(西暦1868年)前より、代々西大谷の寺侍(てらざむらい)の任に就いておりました。寺侍としての仕事は不明ですが、ある時墓地台帳が焼失してしまい、3人の寺侍で墓地台帳を修復するという、途方もない作業を継続していたところ、明治維新を迎えたそうです。明治維新で寺侍職がなくなり、西大谷より特別に墓地での花屋出店を許可され、現在も継続して営むこと、ができているらしいです。